くまのブログ

九州を中心とした創作戦国を取り扱っています。

このブログは「九州三国志」をテーマに活動をしています。
ココログ

②(創作戦国)高橋 鑑種‥たかはし あきたね

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 ●高橋 鑑種‥たかはし あきたね

絵の表記にある。1530年〜1578年は間違いです💧

        1529年〜1578年でお願いします。

 

 ●高橋鑑種とは?

 ‥現在「福岡県」で活躍をした戦国武将です。

 一度は「太宰府」付近を治めていましたが、いろいろあり‥晩年は「北九州」

 で活躍をされました。

 

①家族構成

父‥一万田弾正

母‥?

兄弟‥一万田鑑相(親実)、宗像鑑久

甥‥一万田鑑実

 

②名前について

①で述べたように彼は「高橋 鑑種」とありますが‥、元は「一万田氏」の生まれです。

 

→?一万田氏とは

‥主君「大友氏」の「同紋衆」です。大友氏と同じ家紋を使用しています。

だいだい、主君の「側近」としてや、「加伴衆」に名をつらねています。

簡単に言うと、「大友氏」と同じ血族です。

 

→では、なぜ?彼は「高橋」と名乗っているのか?

生まれは「一万田氏」として、現在「大分県豊後竹田‥」に生まれました。

ですが、「鑑種」が若い時に筑前の名門「高橋家」の養子に「大友義鑑」?「大友宗麟」?が進めます。

それにより「高橋」を名乗っています。

推薦したのは、父「義鑑」か子「宗麟」のどちらかとされていてわかりません。

 

「どうして?鑑種を養子にしたのか?」

→「高橋家」には当時「高橋長種」という方がいました。

 そして、その方には子供がいません。

 そこで、「大友氏」が大友家の同族を養子に入れることにより、筑前(福岡県)の支配

 を目的とされました。

 このことから、かなり鑑種は大友氏に信頼をされていたのでしょう‥

 

 

②鑑種の活躍

大友氏を代表する「立花道雪」や「高橋紹運」‥らの名前をよく耳にしますが

鑑種の活躍も目覚しいものが多いです。

 

・菊池義武の討伐

・西園寺四天王の征伐

・秋月文種の討伐

・小原鑑元の征伐

・毛利家残党の征伐

 ‥など、大友氏に名高い戦で武功をあげていました。

↑にある

・秋月文種の征伐には、「立花道雪」「臼杵鑑速」「志賀親度」‥と大友氏

 を代表する武将達と共に出陣をしました。

 

 このようなことから、主君「宗麟」からの信頼は非常に厚かったようです。

 

●「鑑種」「大内義長」と共に山口へ

鑑種は、大内義長(大友晴英)の奉行として、現在の山口にわたります。

この時、共に奉行として行ったのは「橋爪美濃守」です。

ですが、このことについて‥

「大友側」と「大内家側」で行った奉行人が違います。

大友氏側だと→吉弘左衛門、橋爪美濃守

大内家側だと→高橋鑑種、橋爪美濃守

‥と内容が大きく違います。

「義長」が「山口」へ移動した理由は、「大内義隆」亡き大内家を「陶晴賢」は復興するために、迎えられました。

この結果ですが‥、「大内家」は「毛利家」との衝突により、「陶晴賢」は「厳島の合戦」で亡くなり‥

「義長」は、奉行人「橋爪美濃守」ら若い青年らと共に、自害をします。

細かい内容は「大内義長」(大友晴英)で書きたいと思います。

「大内家」が滅亡をした際「鑑種」は、豊後に使者として渡っていたため奇跡的に生還をしたという説があります。

 

●鬼才を発揮した鑑種

使者として豊後に渡った鑑種は、命を取り留め、それからは「大友宗麟」に使えます。

史実を読むと、鑑種は文武両道な方らしく、戦だけでなく何ごとにも上手な方だったらしいです。

そんな彼の中で、私が注目する出来事は

 

‥筑紫惟門の敗戦後の鎮圧

「筑紫広門」の父「筑紫惟門」は、「侍島合戦」により、大友氏を破ります。

この勝利がきっかけで、その時まで山口に避難していた子「筑紫広門」と「秋月種実」は故郷に戻ってくることになります。

「筑紫惟門」の勝利により、大友氏の勢力の衰えた大友氏は「高橋鑑種」を「筑紫氏」「筑前」の鎮圧のため派遣されます。

この際に、見事に「惟門」ら筑前の国族をまとめることに成功をします。

大友氏の作戦は見事に成功をし、それら戦の功績も含めて、「岩屋城」「宝満城」二つの城の管理を任せれることになりました。

 

③門司城の合戦と鑑種の裏切り

こちらは、長年をかけた合戦になります。

よく「第一次門司合戦/第二門司合戦」と言われます」。

第一次の際には「鑑種」は「大友家」として参加、戦いの様子は記録に乏しく根拠はないのですが、働いていたらしいです。

 

しかし、そんな彼ですが「第二次門司合戦」直後に「大友家」を裏切ります。

 

‥裏切りの理由は

①兄(一万田親実)の妻を奪い兄を殺したから

②前に出兵した「第一次門司合戦」での不満

③報酬の不満

④一国を得たいという野心

⑤大内義長に仕えていた際への不満

⑥「高橋家」による影響

‥らと複数考えられています。

 

この裏切りに対して、主君「大友宗麟」はびっくり!?

上に述べたように、多々憶測の理由はありますが、最後まで「理由」はわからなかったそうです。

 

しかし、裏切ったのはいいのですが。

「第一次門司合戦」に不安を覚えた「宗麟(大友家)」は「足利義輝」をに頼んで「毛利家」との講和を頼み。それが実りました。

 

この「講和」は意外にも「大友家」だけでなく「毛利家」も望んだものでした。

その理由は「大友」「毛利」は同じく2つの戦いをしていたからです。

 

大友家→「毛利家(門司城合戦‥)」と「高橋鑑種征伐」

毛利家→「大友家(門司城合戦‥)」と「尼子家残党退治」

正直、両者は二つの戦いをするのはめんどくさい‥。

なので、この「講和」は両者万歳で結ばれました

 

‥が

 

これを知った。「鑑種」はたまったもんじゃない!

それは「大友家」を裏切った「鑑種」らの身が非常に危ないからです。

「鑑種」の裏切りは、後ろ盾に「毛利家」がいました。

どんなに武勇優れた「鑑種」や名門「高橋家の家臣」でも大友家のうん千万には対抗はできないからです。

 

そんなことで、窮地に立たされた「鑑種」は「毛利家」に、自分の身の安全を約束してもらいます。

結果、それは叶い。結んだ講和の際。

「毛利家」はそこそこ妥協をして「大友家」よりの内容を約束していましたが「鑑種」の身に関してはなんら触れられず、引き続き「岩屋城/宝満城」にいます。

 

しかし、この「講和」は「大友/毛利」共にいけ好かない微妙な内容でした。

なので「毛利家」は「尼子残党征伐」を済ませると再度、九州に介入し「鑑種」など「反大友」の勢力に援軍などの支援をします。

 

 

大友宗麟VS毛利元就

鑑種に賛成をして、力を貸したのは「立花鑑載」「秋月種実」「筑紫惟門・広門」「龍造寺隆信」「毛利元就、隆元」‥ら大蔵氏族と筑前の国族です。

大友家に賛成をしたのは、大友氏家臣と、肥後、筑前らの「田尻鑑種」「甲斐宗運」‥ら有力な地域大名でした。

鑑種の鎮圧に、大友氏は2〜3年の歳月をかけることになります。

 

‥戦いの状況

当初は、鑑種に賛成する氏族が多く、以前から大友氏に不満をもっていた「秋月種実」「筑紫惟門」「龍造寺隆信」「立花鑑載」らを仲間に大友家と戦いました。

〇秋月種実と戸次道雪

この戦いにおいて、「秋月種実」は「戸次道雪」に夜襲にて勝利を治めます。

...これらにより、順調に思われましたが‥

→大友氏側の作戦

・反毛利氏の「山中鹿之介」や「尼子家残党」に呼びかけ、中国地方での反毛利家に資金の援助など応援をします。

・大内家の残党‥大内輝弘の導入。輝弘に少ない人数だが兵をやり毛利氏の領土へ送りこみました。

これらにより、鑑種を後ろ盾で支えていた「毛利氏」は九州に派遣するよりも、自国の防衛に力をおきます。

結果‥、鑑種を支えていた毛利氏は九州から撤退してしまいます。

この結果‥、「筑紫家」「秋月家」「立花家」「龍造寺家」‥らは大友氏へ降伏します。

ですが、鑑種は最後まで降伏することなく、孤独に戦い続けることになりました。

鑑種は城に籠城をし戦います。

この時に鑑種の討伐に出陣したのは「立花道雪」「臼杵鑑速」「吉弘鑑理」‥ら大友氏有力武将でした。

結果、鑑種は大友氏に降伏をします。

この時の鑑種の状態は、非常にやつれていたいたと残されています。

―この戦いでの鑑種―

 最終的には、籠城をしますが、反大友氏に旗を挙げた「立花鑑載」が大友氏と争っている際に、加勢に「鑑種」が出向いたそうです。

⑤裏切りの代償

●毛利氏の残党の討伐

宗麟に降伏をした鑑種は、宗麟の命により切腹‥となりますが、このことについて

「一万田氏」「秋月氏」らの助名により、命はとりとめます。

命をとりとめた鑑種は、宗麟の命により「門司城」に残る毛利氏の残党の討伐を命じだれます。

これについて、鑑種は命令を聞き、何度が「門司城」を攻めて、毛利氏の残党を追い返しました。

その際の当時は、献上するものの免除等されていた様子です。

●養子を人質へ

鑑種には、男子が2人いました。その二人はのりに毛利氏の家臣になります。

ですが、当時は人質として「大友氏」へ一人‥「毛利氏」へ一人‥と息子を送ります。

●名門「高橋家」の追放

大友氏に逆らい、それに負けた鑑種は、「高橋家」の家臣から「恥さらし」と言わんばかりに大きな反対をうけます。

ついには「鑑種には、高橋家から出て行ってもらいたい」と高橋家を追放するよるに言われます。

‥このことについて、鑑種は反対をします。

大友氏に負けた頃から、鑑種は史実によると、今まであった武の姿はなく‥、酒を飲み、家臣にあたったり‥と家臣との溝を深めていきます。

そして、ある時鑑種は家臣を殺してしまいます。

このことに危うさを感じた「高橋家」家臣「北原鎮久」は筑後へ家臣と共逃げて、豊後の「宗麟」の元へ行きます。

そして、宗麟に「鑑種を追い出して、新しく主人を迎えたい!」と申し出ます。

これにより、鑑種は高橋家から追い出されていまします。

 

●二人の「高橋」

「北原鎮久」の申し出により、「高橋家」には新しく「高橋紹運」が入ります。

ですが‥、そのことに鑑種は強く反対をし、「高橋家」の名をとることをつよく拒みます。

これにより「高橋紹運」の「高橋家」

     「高橋鑑種」の「高橋家」

の二つの「高橋家」が誕生します。

ちなみに「高橋紹運」の「高橋家」は「立花宗茂」に継がれます。

 

小倉城へ行く鑑種

大友氏に敗戦をした鑑種は、家臣らにより「岩屋城」「宝満城」を追われると、大友氏の命により「小倉城」へ移動されます。

小倉城」は元、食料倉庫のような城で戦には不向きな作りになっており、周囲には「田原紹忍(田原親賢)」ら‥大友氏の有力大名の監視下に入ります。

小倉城後」の様子は、推測ですが「毛利家」と「大友家」の間に微妙な部分にいるので、どちらとも生ぬるい付き合いをしていたのではないか?と思います。

小倉城へ移動した鑑種は、積極的な活動はせず隠居をします。

 

●隠居

隠居をすると、名を「鑑種」から「宗仙」と改めます。

そして、二人いた男児ですが‥「大友氏」「毛利氏」に人質にやってしまったので、以前から交友のある「秋月種実」から息子?弟を養子に迎えます。

これにより、「紹運系の高橋家」と「鑑種系の高橋家」‥それに加え、「秋月系の高橋家」ができます。そして、秋月家から養子できた「高橋元種」は、のちに現在の宮崎県の延岡城主となります。

 

⑥大友氏の衰退

鑑種の裏切りをきっかけに‥始まった毛利氏との戦いですが、これに事実上勝利をした大友氏は、黄金時代を築きます。

ですが、それも長い間は続くことがなく‥

宗麟は、伊東義祐の助けを受けて「助ける」を建前に「キリスト教王国」の建設をします。(耳川の戦い)

これにより、九州の勢力はガラっと変わります。

衰退した大友氏は、龍造寺氏や秋月氏、そして島津氏に領土を奪われてしまいます。

一番最悪な時だと、現在の(大分県津久見市)以外は全て奪われてしまいました。

‥これをきっかけに、鑑種は長い間戦いの表舞台から離れていましたが、戦に参加をします。

近くにいる大友氏に参加をする氏を打ち倒します。

では‥これから、勢いをつくと思いましたが‥

病で亡くなってしまいます。

原因は大酒飲みな面があったので、そちらではないか?との説があります。

―最後の彼―

「一万田家」として「大友氏」に生まれた彼ですが、最終的に亡くなる前には、最後の言葉に「大蔵家として生きること」など...。の言葉を残している様子だったそうです。

 

⑦死後の鑑種

鑑種が亡くなり‥新たに小倉城に新しく入った「細川忠興」ですが、「忠興」は「鑑種」の眠る墓のある寺と、昔の小倉城を壊してしまいます。

これに、激怒をした鑑種は死してをなお怒り‥、「忠興」の枕元に幽霊として現れたという話があります。

 

(個人の感想)

晩年に鑑種が生活をした「小倉城」は現在のもと違うこと、現在の「小倉城」は、豊臣秀吉の時代に派遣された「細川忠興」が新しく建設をしたものです。

 

そして、かなり人間不信だった宗麟を、ここまで信頼をさせたことについて‥すごいと思いました。

 

(+α)

―高橋鑑種と城―
〇「一万田屋敷」
現在の、大分県豊後大野市 にあった屋敷になります。「鑑種、親実、鑑実、鑑久...等」一万田氏の出身になります。
〇「岩屋城(いわやじょう)と宝満山城(ほうまんやまじょう)」
彼で最も、有名な城は
「岩屋城」と「宝満山城」です。
特に「岩屋城」は、「高橋紹運」の「岩屋城玉砕」で有名です。
史実上。上の2つの築城者は「高橋鑑種」です。
〇「三原城(みはらじょう)」
上の2つに比べると、やや知名度は低いですが「高橋鑑種」が「高橋家入り」をしての初めての城になります。
「三原城」は、代々「高橋家」の城になっています。
後に、功績等多々の理由があり「岩屋城、宝満山城」に彼が移ります。
〇「小倉城(こくらじょう)」
現在は「細川忠興」等で知られる小倉城ですが「忠興」が改築する以前には「鑑種」がいたそうです。

 

―高橋鑑種と息子―

息子が二人いながら「高橋家(大蔵)」を注がせることは、人質の件もありできませんでいたが。

長男「高橋長種」は、大友に人質に行き→その後は毛利家へ→毛利家の勢力縮小により勢力を落としますが。最後は「岡山県での高橋さん」の起源になっています

次男は、毛利家や人質に行きます。その後も毛利家に仕えたそうですが、その後は調べ中です。

 

★鑑種の登場するコンテンツ

・小説

→(講談社)火炎城

→(光山制作所)福岡戦国武将物語(下)

→(文芸社)幻のジパング

→(ファンタジア文庫)織田信奈の野望

→(PHP文庫)大友宗麟

→(新潮社)王の挽歌

上は鑑種が主要に登場するものです。

よく「宗麟」の物語に登場しますが、やや流されがちです。

 

各コンテンツの「鑑種」について

①火炎城

→小姓に時代から鑑種が描かれています。

 やや宗麟よりの物語ですが、鑑種についてよく書き込まれています。

 「紹運」や「宗麟」などとの青春時代が描かれています。

  (紹運と同期はなかなか‥)

 非常に「主君(宗麟)」思いで、宗麟のしでかすハプニングに巻き込まれていきます。

 印象として、宗麟との仲が親密に描かれている物語だと思いました。

 

②福岡戦国武将物語

→鑑種が主人公の物語です。「火炎城」に比べて宗麟と鑑種の仲は不仲が印象的です。

 野望野望した「鑑種」を読むことができます。

 幼い時からは学友として宗麟と過ごし、親密な仲ですが、その仲で生まれる不満が描かれています。

 そして「田原親賢」らと同期に描かれ、時代の流れがわかりやすいです。

 鑑種が主人公ということがあり、今まで読んだ小説よりも詳細に鑑種について描かれています。そして、何かと「筑紫家」がかわいそう‥

 

③幻のジパング

→全体の印象は「火炎城」と同じような世界で、宗麟とは幼い時から親密な仲だったというものです。裏切りの物語の際には、傷つく宗麟の姿が描かれています。

 

織田信奈の野望

ライトノベル小説です。女体化した宗麟ちゃんに「耳川の戦い後」裏切り精神的にショックを与えています。

(基本女体化物語ですが、多分「道雪/紹運/鑑種」らへんは男設定だと思います多分)

 

大友宗麟

主人より「義鑑」より初っ端から出てきて、姿を消します。

 

⑥王の挽歌

超絶信頼してたのに、裏切られるやりとりから戦いの終結に登場時ます。

 

ここまでの観覧‥ありがとうございました。