くまのブログ

九州を中心とした創作戦国を取り扱っています。

このブログは「九州三国志」をテーマに活動をしています。
ココログ

九州三国志について

-お久しぶりです。久しくの更新になります。-

-九州三国志について-

「九州三国志」とは、戦国時代に九州を舞台にした「さんすくみ」の時代になります。

メインに「大友家」「龍造寺家」「島津家」が大きな勢力になります。

-3勢力について-

「(豊後)大友家」「(薩摩)島津家」「(肥前)龍造寺家」になります。

当時のドンは

「大友家」→「大友宗麟(おおとも そうりん)」

「島津家」→「島津義久(しまづ よしひさ)」

「龍造寺家」→「龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)」

地域については、「豊後(大分県)」「薩摩(鹿児島県)」「肥前(佐賀県)」になります。

-「九州三国志」の重要人物-

大友宗麟/大友義統 ○龍造寺隆信/鍋島直茂 ○島津義久/島津貴久

有馬晴信/大村純忠 ○伊東義祐/肝付兼続 ○秋月種実/高橋鑑種/筑紫広門or惟門

毛利元就/毛利隆元 ○織田信長/豊臣秀吉 ○大内義長/大内義隆

-3勢力の周辺地域について-

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多分、ざっくりこんな感じです。

目立って関係深いお家

○「(豊後)大友家」と「(筑前)秋月家」

○「(肥前)龍造寺家」と「(肥前)有馬家」

○「(薩摩)島津家」と「(大隈)肝付家」

などなど‥

-九州三国志の戦い-

<大友宗麟の黄金期>

家督継承後「宗麟」は、いろいろと問題を直面しながらも大きく九州を支配します。

最大の黄金期には「(日向)宮崎県」「(薩摩/大隈)鹿児島県」を除き支配下におきます。

 

<大友家の敗北>

 

調子のよかった大友家ですが「耳川の戦い」で歴史的敗北を喫します。

-耳川の戦いとは-

‥島津家の支配から逃れるために「(日向国主)伊東義祐」が「大友宗麟」を頼ったことがはじまりです。

敗北をした「大友家」はこれを大きいきっかけに「(肥前)龍造寺家」「(筑前)秋月家」「(薩摩)島津家」に領地を奪われていきます。

<龍造寺隆信の参上!>

今まで大友家の配下だった「龍造寺家」ですが。「耳川の戦い」の敗北をきっかけにムシャムシャと侵食していきます。

有名な勝利の話だと「今山の戦い」になります

-今山戦いとは-

龍造寺隆信の義弟(家臣)の「鍋島直茂」をメインにして、大友家の「大友親卓」の合戦になります。

この戦いの勝利をした「龍造寺家」は、反大友家「秋月家/筑紫家‥」らと共にこの時からフィバーの時代を迎えます。

<龍造寺の衰退>

フィーバー時代を迎えた「龍造寺家」でしたが、衰退を迎えます。

そのきっかけが「柳川城をめぐる争い」

-柳川城とは-

‥難攻不落の城として「立花宗茂」で有名なお城です。当時は「蒲地氏」がいました。

「龍造寺家」がムシャムシャ‥と大友家の領地を召している時同じく「島津家」も領地ムシャムシャしていました。

そこで「龍造寺隆信」は「柳川城」を「島津家」に奪われることを阻止するべく、直接的な支配を進めていきます。

この際にいろいろとありまして、これを機に「龍造寺家」から離れる人が多くなります。

<有馬家の爆発>

そして、以前から「龍造寺家」と敵対していた「(肥前)有馬家」。

「龍造寺家」の支配に爆発をしました。

その時に、当時有馬家のドン「有馬晴信」は「島津義久」を頼ります。

<島津家と龍造寺家>

「有馬家」の頼みを受け入れた「島津家」は同じくして「龍造寺家」と戦います。

この戦いを「沖田畷の戦い」といいます。

-沖田畷の戦いとは-

‥「(肥前)龍造寺家」vs「(薩摩)島津家/(肥前)有馬家」の戦いです。

この戦いにより、戦国時代史上珍しいのですが。

頭領の「龍造寺隆信」が戦場に打ち取られます。

これにより、「島津家」のフィーバーの時代が波が‥きます。

<宗麟大阪へ行く>

「龍造寺家」が倒されてしまい。島津家を食い止める壁がなくなってしまい。

「大友家」は本格的にピンチになります。

そこで、「大友宗麟」は家臣の遺言を聞き入れて大阪へいきます。

大阪では「豊臣秀吉」に会い、救援の約束をします。

<大友vs島津>

大阪から帰り、「豊臣家」からの救援を待つ「大友家」。

耳川の戦い」の敗北を機に「秋月家/龍造寺家/島津家」から、領地を食べられてしまった「大友家」は、ついに島津家と再び戦うことになりました。

この戦いを「丹生島城の戦い」といいます。

-丹生島城の戦いとは-

‥「大友宗麟」vs「島津家久」の戦いになります。この戦いでは日本で初めて「フランキ砲」が使用されます。

この戦いでは、「フランキ砲」の力もあり島津家を撤退させます。

<豊臣秀吉九州征伐>

大阪へ行き、「豊臣家」に助けをもとめた「大友家」。

ついに、豊臣家が「九州征伐」にのりだします。

豊臣家配下の家が「島津家」を征伐しにきます。

当初は「戸次川の戦い」と島津家は勝利をします。

-戸次の戦いとは-

‥「島津家」vs「豊臣家/配下武将」の戦いです。この戦いは総大将の「仙石家」等が参加をします。結果的に「島津家」の勝利。これに「豊臣家側」に参加をした「長宗我部信親」が亡くなるなど、かなり血みどろな戦いになります。

<島津義久の降参と、九州三国志の終わり>

当初は、島津家もよかったのですが、天下の「豊臣家」を敵にまわしたことと、島津家も家中で揉めることになります。

結果、「島津家」は降参をします。

これにより、今まで三勢力として争ってきた「大友家」「島津家」「龍造寺家」の時代は終わり、新たな「豊臣家」の配下になりました。

 

‥ここまでが、ざっくりとした「九州三国志」の流れになります。

 かなり、はしょりましたがかなりそれ以上にもめてます。

-九州三国志後の九州-

<新たにきた人たち>

「九州三国志」後の九州は上のとおり「豊臣家」の支配下に入ります。

そてにより「秀吉」の配下の

○「加藤清正

○「黒田官兵衛/如水&黒田長政

○「細川忠興

等が、九州に派遣されます。

<後の「三国志」の三勢力>

(島津家)九州征伐後は島津家は「島津義弘」をメインに「朝鮮出兵」や「関ヶ原の戦い」等の名だたる戦で功績をあげて行くなど、知名度が高くなります。

(龍造寺家)頭領「龍造寺隆信」を失い。龍造寺家の実権などを義弟「鍋島直茂」を握り、彼も同じく名高い戦に参加し、「秀吉」等から信頼を得ます。

(大友家)「秀吉」に救援をもとめた後、かなり「宗麟」は「秀吉」から気に入られたようで「日向(宮崎県)の支配」をと話しがありましたが、「宗麟」は断り。

残念なことに「九州征伐」が終わる前に亡くなります。

そして、さらに残念なことに「秀吉」に息子の「義統」は嫌われてしまい。(朝鮮出兵の失態等)かわいそうなことに‥。

-九州三国志後の余談-

この記事ではあまり、ピックアップしませんでしたが。

「秋月家」やについて。

当時のドン「秋月種実(あきづき たねざね)」は「反大友家」の中心人物になります。

彼の「弟か息子」※史実により表記違いあり

が後、「延岡城」を支配することになります。

 

-ここまで読んでくださりありがとうございます。-

 

どこの国の戦いや勢力図にもあると思いますが。

そんな中でも「九州三国志」は非常に個性の強さを私は感じます。

「島津家」「龍造寺家」「大友家」と、国も違えばドンの性格も違い。あたり前のとうに家臣だって違います。

簡単な話。三名三家‥。かなりクセが強く。

こう本を読み学んでいて、他の地域とは違う魅力があると思います。

 

本当に、ここまで読んでいただけて嬉しいかぎりです。

それでは、またお会いしましょう。

では‥ 

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②(創作戦国)高橋 鑑種‥たかはし あきたね

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 ●高橋 鑑種‥たかはし あきたね

絵の表記にある。1530年〜1578年は間違いです💧

        1529年〜1578年でお願いします。

 

 ●高橋鑑種とは?

 ‥現在「福岡県」で活躍をした戦国武将です。

 一度は「太宰府」付近を治めていましたが、いろいろあり‥晩年は「北九州」

 で活躍をされました。

 

①家族構成

父‥一万田弾正

母‥?

兄弟‥一万田鑑相(親実)、宗像鑑久

甥‥一万田鑑実

 

②名前について

①で述べたように彼は「高橋 鑑種」とありますが‥、元は「一万田氏」の生まれです。

 

→?一万田氏とは

‥主君「大友氏」の「同紋衆」です。大友氏と同じ家紋を使用しています。

だいだい、主君の「側近」としてや、「加伴衆」に名をつらねています。

簡単に言うと、「大友氏」と同じ血族です。

 

→では、なぜ?彼は「高橋」と名乗っているのか?

生まれは「一万田氏」として、現在「大分県豊後竹田‥」に生まれました。

ですが、「鑑種」が若い時に筑前の名門「高橋家」の養子に「大友義鑑」?「大友宗麟」?が進めます。

それにより「高橋」を名乗っています。

推薦したのは、父「義鑑」か子「宗麟」のどちらかとされていてわかりません。

 

「どうして?鑑種を養子にしたのか?」

→「高橋家」には当時「高橋長種」という方がいました。

 そして、その方には子供がいません。

 そこで、「大友氏」が大友家の同族を養子に入れることにより、筑前(福岡県)の支配

 を目的とされました。

 このことから、かなり鑑種は大友氏に信頼をされていたのでしょう‥

 

 

②鑑種の活躍

大友氏を代表する「立花道雪」や「高橋紹運」‥らの名前をよく耳にしますが

鑑種の活躍も目覚しいものが多いです。

 

・菊池義武の討伐

・西園寺四天王の征伐

・秋月文種の討伐

・小原鑑元の征伐

・毛利家残党の征伐

 ‥など、大友氏に名高い戦で武功をあげていました。

↑にある

・秋月文種の征伐には、「立花道雪」「臼杵鑑速」「志賀親度」‥と大友氏

 を代表する武将達と共に出陣をしました。

 

 このようなことから、主君「宗麟」からの信頼は非常に厚かったようです。

 

●「鑑種」「大内義長」と共に山口へ

鑑種は、大内義長(大友晴英)の奉行として、現在の山口にわたります。

この時、共に奉行として行ったのは「橋爪美濃守」です。

ですが、このことについて‥

「大友側」と「大内家側」で行った奉行人が違います。

大友氏側だと→吉弘左衛門、橋爪美濃守

大内家側だと→高橋鑑種、橋爪美濃守

‥と内容が大きく違います。

「義長」が「山口」へ移動した理由は、「大内義隆」亡き大内家を「陶晴賢」は復興するために、迎えられました。

この結果ですが‥、「大内家」は「毛利家」との衝突により、「陶晴賢」は「厳島の合戦」で亡くなり‥

「義長」は、奉行人「橋爪美濃守」ら若い青年らと共に、自害をします。

細かい内容は「大内義長」(大友晴英)で書きたいと思います。

「大内家」が滅亡をした際「鑑種」は、豊後に使者として渡っていたため奇跡的に生還をしたという説があります。

 

●鬼才を発揮した鑑種

使者として豊後に渡った鑑種は、命を取り留め、それからは「大友宗麟」に使えます。

史実を読むと、鑑種は文武両道な方らしく、戦だけでなく何ごとにも上手な方だったらしいです。

そんな彼の中で、私が注目する出来事は

 

‥筑紫惟門の敗戦後の鎮圧

「筑紫広門」の父「筑紫惟門」は、「侍島合戦」により、大友氏を破ります。

この勝利がきっかけで、その時まで山口に避難していた子「筑紫広門」と「秋月種実」は故郷に戻ってくることになります。

「筑紫惟門」の勝利により、大友氏の勢力の衰えた大友氏は「高橋鑑種」を「筑紫氏」「筑前」の鎮圧のため派遣されます。

この際に、見事に「惟門」ら筑前の国族をまとめることに成功をします。

大友氏の作戦は見事に成功をし、それら戦の功績も含めて、「岩屋城」「宝満城」二つの城の管理を任せれることになりました。

 

③門司城の合戦と鑑種の裏切り

こちらは、長年をかけた合戦になります。

よく「第一次門司合戦/第二門司合戦」と言われます」。

第一次の際には「鑑種」は「大友家」として参加、戦いの様子は記録に乏しく根拠はないのですが、働いていたらしいです。

 

しかし、そんな彼ですが「第二次門司合戦」直後に「大友家」を裏切ります。

 

‥裏切りの理由は

①兄(一万田親実)の妻を奪い兄を殺したから

②前に出兵した「第一次門司合戦」での不満

③報酬の不満

④一国を得たいという野心

⑤大内義長に仕えていた際への不満

⑥「高橋家」による影響

‥らと複数考えられています。

 

この裏切りに対して、主君「大友宗麟」はびっくり!?

上に述べたように、多々憶測の理由はありますが、最後まで「理由」はわからなかったそうです。

 

しかし、裏切ったのはいいのですが。

「第一次門司合戦」に不安を覚えた「宗麟(大友家)」は「足利義輝」をに頼んで「毛利家」との講和を頼み。それが実りました。

 

この「講和」は意外にも「大友家」だけでなく「毛利家」も望んだものでした。

その理由は「大友」「毛利」は同じく2つの戦いをしていたからです。

 

大友家→「毛利家(門司城合戦‥)」と「高橋鑑種征伐」

毛利家→「大友家(門司城合戦‥)」と「尼子家残党退治」

正直、両者は二つの戦いをするのはめんどくさい‥。

なので、この「講和」は両者万歳で結ばれました

 

‥が

 

これを知った。「鑑種」はたまったもんじゃない!

それは「大友家」を裏切った「鑑種」らの身が非常に危ないからです。

「鑑種」の裏切りは、後ろ盾に「毛利家」がいました。

どんなに武勇優れた「鑑種」や名門「高橋家の家臣」でも大友家のうん千万には対抗はできないからです。

 

そんなことで、窮地に立たされた「鑑種」は「毛利家」に、自分の身の安全を約束してもらいます。

結果、それは叶い。結んだ講和の際。

「毛利家」はそこそこ妥協をして「大友家」よりの内容を約束していましたが「鑑種」の身に関してはなんら触れられず、引き続き「岩屋城/宝満城」にいます。

 

しかし、この「講和」は「大友/毛利」共にいけ好かない微妙な内容でした。

なので「毛利家」は「尼子残党征伐」を済ませると再度、九州に介入し「鑑種」など「反大友」の勢力に援軍などの支援をします。

 

 

大友宗麟VS毛利元就

鑑種に賛成をして、力を貸したのは「立花鑑載」「秋月種実」「筑紫惟門・広門」「龍造寺隆信」「毛利元就、隆元」‥ら大蔵氏族と筑前の国族です。

大友家に賛成をしたのは、大友氏家臣と、肥後、筑前らの「田尻鑑種」「甲斐宗運」‥ら有力な地域大名でした。

鑑種の鎮圧に、大友氏は2〜3年の歳月をかけることになります。

 

‥戦いの状況

当初は、鑑種に賛成する氏族が多く、以前から大友氏に不満をもっていた「秋月種実」「筑紫惟門」「龍造寺隆信」「立花鑑載」らを仲間に大友家と戦いました。

〇秋月種実と戸次道雪

この戦いにおいて、「秋月種実」は「戸次道雪」に夜襲にて勝利を治めます。

...これらにより、順調に思われましたが‥

→大友氏側の作戦

・反毛利氏の「山中鹿之介」や「尼子家残党」に呼びかけ、中国地方での反毛利家に資金の援助など応援をします。

・大内家の残党‥大内輝弘の導入。輝弘に少ない人数だが兵をやり毛利氏の領土へ送りこみました。

これらにより、鑑種を後ろ盾で支えていた「毛利氏」は九州に派遣するよりも、自国の防衛に力をおきます。

結果‥、鑑種を支えていた毛利氏は九州から撤退してしまいます。

この結果‥、「筑紫家」「秋月家」「立花家」「龍造寺家」‥らは大友氏へ降伏します。

ですが、鑑種は最後まで降伏することなく、孤独に戦い続けることになりました。

鑑種は城に籠城をし戦います。

この時に鑑種の討伐に出陣したのは「立花道雪」「臼杵鑑速」「吉弘鑑理」‥ら大友氏有力武将でした。

結果、鑑種は大友氏に降伏をします。

この時の鑑種の状態は、非常にやつれていたいたと残されています。

―この戦いでの鑑種―

 最終的には、籠城をしますが、反大友氏に旗を挙げた「立花鑑載」が大友氏と争っている際に、加勢に「鑑種」が出向いたそうです。

⑤裏切りの代償

●毛利氏の残党の討伐

宗麟に降伏をした鑑種は、宗麟の命により切腹‥となりますが、このことについて

「一万田氏」「秋月氏」らの助名により、命はとりとめます。

命をとりとめた鑑種は、宗麟の命により「門司城」に残る毛利氏の残党の討伐を命じだれます。

これについて、鑑種は命令を聞き、何度が「門司城」を攻めて、毛利氏の残党を追い返しました。

その際の当時は、献上するものの免除等されていた様子です。

●養子を人質へ

鑑種には、男子が2人いました。その二人はのりに毛利氏の家臣になります。

ですが、当時は人質として「大友氏」へ一人‥「毛利氏」へ一人‥と息子を送ります。

●名門「高橋家」の追放

大友氏に逆らい、それに負けた鑑種は、「高橋家」の家臣から「恥さらし」と言わんばかりに大きな反対をうけます。

ついには「鑑種には、高橋家から出て行ってもらいたい」と高橋家を追放するよるに言われます。

‥このことについて、鑑種は反対をします。

大友氏に負けた頃から、鑑種は史実によると、今まであった武の姿はなく‥、酒を飲み、家臣にあたったり‥と家臣との溝を深めていきます。

そして、ある時鑑種は家臣を殺してしまいます。

このことに危うさを感じた「高橋家」家臣「北原鎮久」は筑後へ家臣と共逃げて、豊後の「宗麟」の元へ行きます。

そして、宗麟に「鑑種を追い出して、新しく主人を迎えたい!」と申し出ます。

これにより、鑑種は高橋家から追い出されていまします。

 

●二人の「高橋」

「北原鎮久」の申し出により、「高橋家」には新しく「高橋紹運」が入ります。

ですが‥、そのことに鑑種は強く反対をし、「高橋家」の名をとることをつよく拒みます。

これにより「高橋紹運」の「高橋家」

     「高橋鑑種」の「高橋家」

の二つの「高橋家」が誕生します。

ちなみに「高橋紹運」の「高橋家」は「立花宗茂」に継がれます。

 

小倉城へ行く鑑種

大友氏に敗戦をした鑑種は、家臣らにより「岩屋城」「宝満城」を追われると、大友氏の命により「小倉城」へ移動されます。

小倉城」は元、食料倉庫のような城で戦には不向きな作りになっており、周囲には「田原紹忍(田原親賢)」ら‥大友氏の有力大名の監視下に入ります。

小倉城後」の様子は、推測ですが「毛利家」と「大友家」の間に微妙な部分にいるので、どちらとも生ぬるい付き合いをしていたのではないか?と思います。

小倉城へ移動した鑑種は、積極的な活動はせず隠居をします。

 

●隠居

隠居をすると、名を「鑑種」から「宗仙」と改めます。

そして、二人いた男児ですが‥「大友氏」「毛利氏」に人質にやってしまったので、以前から交友のある「秋月種実」から息子?弟を養子に迎えます。

これにより、「紹運系の高橋家」と「鑑種系の高橋家」‥それに加え、「秋月系の高橋家」ができます。そして、秋月家から養子できた「高橋元種」は、のちに現在の宮崎県の延岡城主となります。

 

⑥大友氏の衰退

鑑種の裏切りをきっかけに‥始まった毛利氏との戦いですが、これに事実上勝利をした大友氏は、黄金時代を築きます。

ですが、それも長い間は続くことがなく‥

宗麟は、伊東義祐の助けを受けて「助ける」を建前に「キリスト教王国」の建設をします。(耳川の戦い)

これにより、九州の勢力はガラっと変わります。

衰退した大友氏は、龍造寺氏や秋月氏、そして島津氏に領土を奪われてしまいます。

一番最悪な時だと、現在の(大分県津久見市)以外は全て奪われてしまいました。

‥これをきっかけに、鑑種は長い間戦いの表舞台から離れていましたが、戦に参加をします。

近くにいる大友氏に参加をする氏を打ち倒します。

では‥これから、勢いをつくと思いましたが‥

病で亡くなってしまいます。

原因は大酒飲みな面があったので、そちらではないか?との説があります。

―最後の彼―

「一万田家」として「大友氏」に生まれた彼ですが、最終的に亡くなる前には、最後の言葉に「大蔵家として生きること」など...。の言葉を残している様子だったそうです。

 

⑦死後の鑑種

鑑種が亡くなり‥新たに小倉城に新しく入った「細川忠興」ですが、「忠興」は「鑑種」の眠る墓のある寺と、昔の小倉城を壊してしまいます。

これに、激怒をした鑑種は死してをなお怒り‥、「忠興」の枕元に幽霊として現れたという話があります。

 

(個人の感想)

晩年に鑑種が生活をした「小倉城」は現在のもと違うこと、現在の「小倉城」は、豊臣秀吉の時代に派遣された「細川忠興」が新しく建設をしたものです。

 

そして、かなり人間不信だった宗麟を、ここまで信頼をさせたことについて‥すごいと思いました。

 

(+α)

―高橋鑑種と城―
〇「一万田屋敷」
現在の、大分県豊後大野市 にあった屋敷になります。「鑑種、親実、鑑実、鑑久...等」一万田氏の出身になります。
〇「岩屋城(いわやじょう)と宝満山城(ほうまんやまじょう)」
彼で最も、有名な城は
「岩屋城」と「宝満山城」です。
特に「岩屋城」は、「高橋紹運」の「岩屋城玉砕」で有名です。
史実上。上の2つの築城者は「高橋鑑種」です。
〇「三原城(みはらじょう)」
上の2つに比べると、やや知名度は低いですが「高橋鑑種」が「高橋家入り」をしての初めての城になります。
「三原城」は、代々「高橋家」の城になっています。
後に、功績等多々の理由があり「岩屋城、宝満山城」に彼が移ります。
〇「小倉城(こくらじょう)」
現在は「細川忠興」等で知られる小倉城ですが「忠興」が改築する以前には「鑑種」がいたそうです。

 

―高橋鑑種と息子―

息子が二人いながら「高橋家(大蔵)」を注がせることは、人質の件もありできませんでいたが。

長男「高橋長種」は、大友に人質に行き→その後は毛利家へ→毛利家の勢力縮小により勢力を落としますが。最後は「岡山県での高橋さん」の起源になっています

次男は、毛利家や人質に行きます。その後も毛利家に仕えたそうですが、その後は調べ中です。

 

★鑑種の登場するコンテンツ

・小説

→(講談社)火炎城

→(光山制作所)福岡戦国武将物語(下)

→(文芸社)幻のジパング

→(ファンタジア文庫)織田信奈の野望

→(PHP文庫)大友宗麟

→(新潮社)王の挽歌

上は鑑種が主要に登場するものです。

よく「宗麟」の物語に登場しますが、やや流されがちです。

 

各コンテンツの「鑑種」について

①火炎城

→小姓に時代から鑑種が描かれています。

 やや宗麟よりの物語ですが、鑑種についてよく書き込まれています。

 「紹運」や「宗麟」などとの青春時代が描かれています。

  (紹運と同期はなかなか‥)

 非常に「主君(宗麟)」思いで、宗麟のしでかすハプニングに巻き込まれていきます。

 印象として、宗麟との仲が親密に描かれている物語だと思いました。

 

②福岡戦国武将物語

→鑑種が主人公の物語です。「火炎城」に比べて宗麟と鑑種の仲は不仲が印象的です。

 野望野望した「鑑種」を読むことができます。

 幼い時からは学友として宗麟と過ごし、親密な仲ですが、その仲で生まれる不満が描かれています。

 そして「田原親賢」らと同期に描かれ、時代の流れがわかりやすいです。

 鑑種が主人公ということがあり、今まで読んだ小説よりも詳細に鑑種について描かれています。そして、何かと「筑紫家」がかわいそう‥

 

③幻のジパング

→全体の印象は「火炎城」と同じような世界で、宗麟とは幼い時から親密な仲だったというものです。裏切りの物語の際には、傷つく宗麟の姿が描かれています。

 

織田信奈の野望

ライトノベル小説です。女体化した宗麟ちゃんに「耳川の戦い後」裏切り精神的にショックを与えています。

(基本女体化物語ですが、多分「道雪/紹運/鑑種」らへんは男設定だと思います多分)

 

大友宗麟

主人より「義鑑」より初っ端から出てきて、姿を消します。

 

⑥王の挽歌

超絶信頼してたのに、裏切られるやりとりから戦いの終結に登場時ます。

 

ここまでの観覧‥ありがとうございました。

 

 

①(創作戦国)大友 宗麟‥おおとも そうりん

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①大友 宗麟(おおとも そうりん)

→「大友 義鎮」「大友新太郎」「大友五郎」「宗滴」「宗麟」「ドン・フランシスコ」

 

(どんな人?)

‥現在、「大分県」を代表する戦国大名

 宗麟の家臣には「立花道雪」「高橋紹運」「高橋鑑種」「立花宗茂」‥

 と多くの有能の家臣が数多くいます。

 

(どんなことで有名?)

キリシタン大名です。同じ九州の戦国大名有馬晴信」「大村粋忠」らと共に

 「天正遣欧少年使節」を派遣します。

 このことについて、教科書に取り上げかれています。

 ですが‥、このことについて、宗麟は名前のみ‥という説もあります。

 

(違ったイメージ)

‥宗麟は「キリシタン大名」ですが、彼が洗礼をしたのは、晩年のお話です。

 それまでは、仏教の方でした。

 

家族構成について

父「大友義鑑

母「阿蘇氏の娘」?「大内義隆の姉」?「(異)塩市丸の母」

弟(異?)大内義長 (異)大友塩市丸 (異)大友鎮成  (異兄)田原親賢

 

宗麟は「阿蘇氏」か「大内氏」の母から生まれます。

ですが、幼くして母は無くなってしまいます。

 

●弟→大内義長 宗麟が家督相続後、大内氏の正当な後継者になります。

 ですが、「毛利氏」により自害に追い込まれます

 

弟→大友塩市丸 家督相続の際に殺されてしまいます。

  父「義鑑」と新しい継母の子供です。

 

弟→大友鎮成  この方は本当に存在していたのか?が分かりません

  一つの説では「龍造寺氏、鍋島氏の創作人物」の説

  二つの説では、叔父の「菊池義武」の息子(いとこ関係)

  彼は、「今山の戦い」(大友氏VS龍造寺氏、鍋島氏)との戦いで亡くなります。

 

兄→田原親賢  「奈多夫人」の兄で、異兄弟の関係です。

  そのような立場もあり、宗麟から一目おかれていたようです。

 

(逸話からの宗麟)

女性好き

‥戦国時代はよく「男色」が流行っていましたが。宗麟は「女」の方が好きだったみたいです。

●自分の妻にする

・叔父「菊池 義武」の妻

・家臣「一万田親実」の妻

・家臣「服部右京之助」の妻 ‥達を自分の妻にする。

 

●結婚相手

・一色家の姫(京都からの姫様)

・奈多夫人(田原親賢の妹)

・ジュリア(キリシタン)

 

●京都での女漁り

 

‥など、数々のワイドショーの目玉記事をしています。

 

ですが、これらは確かな事ではありません

 真実は誰にもわかりません

 

‥自分の妻にする

→「菊池義武の妻」の時は「奈多夫人」と夫婦になったばかりの時期です。

→「一万田夫人」の時は

 ・夫人を寝とったことが知れて、夫「親実」に謀反をされた

 ・「親実」が邪魔だから宗麟が処罰した。

 ・「親実」の弟「高橋鑑種」が宗麟へ謀反をした理由

 ‥など‥のいずれかの‥理由が有力です。

 ですが、

●「親実」の息子「鑑種」にとって「甥」

「一万田鑑実」は、父・母 を害に合わせた宗麟に「謀反」はしていません。

むしろ叔父「高橋 鑑種」の謀反の討伐に参加をし‥

耳川の戦いでは、宗麟を守り抜き「シンガリ」を務めています。

 

●そして、「親実」と「夫人」は少々年配にして「鑑実」を出産している記録もあります。このことから、当時の宗麟と夫人との年齢の差があります。

 

このことから‥敵国「毛利氏」や「秋月氏」ら‥の「作り話じゃないか?」という説もあります。

 

→結婚について

①宗麟は10代後半から20代前半に、父「大友義鑑」の進めた「一色家の姫」と結婚します。ですが「義鑑」が亡くなると離別します。

 

②20代前半から40代・50代くらいまで「奈多夫人」と結ばれます。(側室として)

ですが、「奈多八幡」の姫である「奈多夫人」は「キリスト教」を嫌っていました。

このことや、宗麟の女性好きが理由で不仲が長く続き離別します。

 

③後期になると、キリシタン大名となった宗麟は、同じキリシタンである女性「ジュリア」と結婚します。

 

このように、結婚生活ですが、面白いことがあります。

●「奈多夫人」は、一度結婚をし離別をした歴のある方で、宗麟よりも年上の姉さん女房です。そして、子連れだった‥と説もあります。

 

●「ジュリア」は、未亡人であったそうです。この方も子連れであり、年上の姉さん女房でした。‥「ジュリア」の連れ子の娘と、宗麟の次男「大友親家」は結婚します。

 

‥もしかしたら、宗麟は年上の女性が好きだったんでしょうか?

この時代は、帝王学‥なのがあり、現代とは考え方が違いますね‥

 

困ったお殿様

大友宗麟は、当時世界では大きな評価をうけている人物でした。

当時、日本にいた外国の方からは「日本で最も、そうちそうめいな人物だ」‥と高いと評価されています。

 

‥ですが

 

一方で「あなたは、友人だといい人だ」‥だが「国王には向いてない」と断言されました。

 

この言葉のように、宗麟さんは大変困ったお殿様だったようです。

 

立花道雪に説教をされる

立花道雪に猿を殺される

耳川の戦い後‥、立花道雪に手紙で叱られる

●お城から行方不明

 

‥など、数多くの「困ったエピソード」があります。

 

立花道雪さんシリーズでは

→遊びの度はすぎる宗麟を呼ぶために、道雪が宴会を開き呼び寄せて、説教をする

 可愛がってたペットを目の前で殺し、人望のことなどについてしかる

 ‥などがあったそうです。

 

④宗麟さんの少年時代と家督相続事件

宗麟は、大友氏の21代目当主に生まれます。

複数の諸説を読むと「優秀」だが「病弱」のイメージが強い方でした。

‥幼い時は非常に優秀だったようで、幼いながら「九国を統一したい」と言うこと

ちち「義鑑」が普通よりも早く元服をされたようです。

ですが‥

10代後半が近くなってくると、「粗暴」「横暴」のイメージが強くなります。

‥服装はやや乱れた服を好んで、乗れもしない暴れ馬を好んだそうです。

剣の訓練では、真剣で勝負させるなど‥少々、人間性が欠けてる‥ような方らしいです。

 

このことが原因なのか‥

父「大友義鑑」は宗麟を嫌うようになり、三男の「塩市丸」を可愛がるようになります。

このことが原因で家督相続事件の「二段崩れ」がおきます。

 

「義鑑」が宗麟の家臣「田口氏」「津久見氏」‥らを呼びます。

この時に、「宗麟を仏に入れる」か「殺していまう」ということを言ったそうですが

呼んだ家臣は全員が反対し、それに激怒した「義鑑」は「田口氏」「津久見氏」を残す家臣を殺してしまいます。

これに危うさを覚えた残った二人が、夜「義鑑」のいる屋敷に入り、「義鑑」と「当時の妻」と「その姫と子」に「塩市丸」を殺してしまいます。

‥この当時、宗麟は別府の温泉に病気の治療のため出かけていたそうです。

 

ですが、違う説では

宗麟がしくんだことではないか?との説もあります。

この根拠は、父の死後と叔父「菊池義武」の征伐の順調さからきていると思います。

ですが‥真実は誰にもわかりません。

 

宗麟の宿敵

宗麟の時代の九州は「九州三国志」のように三すくみのような時代でした。

「大友氏」「島津氏」「龍造寺氏」‥と名前を並べます。

 

そんな中でも、最も宗麟の宿敵と言えるのは「毛利元就」と「秋月種実」じゃないか‥と私は思っています。

 

毛利元就」と「宗麟」

‥宗麟は、元就に弟「大内義長」を殺されています。

それに、寵愛していた家臣を謀反に誘っています。

そして、最も近くにいる敵だったとも言えると思います。

元就と宗麟は親子程の年の差があり、「元就」は早く亡くなりますが‥

子、隆元 孫、輝元‥など大きく大友氏にかかわってきます。

 

そんな中でも、最も大きな事件だと思うのは

「高橋鑑種」の謀反だと思います。上で述べた。寵愛していた家臣とか「鑑種」のことです。

 彼の謀反理由は、複数考えられています。

 そして、彼の謀反事件から「毛利氏」と「大友氏」の直接対決が始まります。

 

●‥宗麟が鑑種に裏切られた事について

「鑑種が謀反を企んでいる?」という考えは知られていた話のようでしたが‥

 宗麟は信じなかったようです。

 最終的に、宗麟が鑑種に使者を出した時に、その使者が殺されてしまったことです。

 これを知った宗麟は、さすがに‥謀反の考えも受け入れます。

 そして、鑑種への対抗をします。

 謀反をした鑑種について

 宗麟は「せっかく可愛がったのに‥」「彼ほど、忠節無比な人はいなかった」と思われたそうです。

 この謀反の鎮圧に3年の月日を費やします。

 細かいことに、ついては「高橋鑑種」について書きたいと思います。

 

 ●「秋月種実」と「宗麟」

 「種実」は宗麟に「父、文種」と「兄」を殺されています。

 このことが理由なのか?詳しいことはわかりませんが、「毛利氏との対立」や

 「龍造寺氏、島津氏との対立」の時の大きくかかわってきます。

 大友氏が、耳川の戦いで敗れるまでは、表向きは大友氏に所属していますが

 敗北をすると、どんどん大友氏の領地を奪っていくなどします。

 ‥詳細は「秋月種実」についてで書きたいと思います。

 

素晴らしい家臣

大友氏は、全国中でも非常に人材のいい家だと思います。

とくに、宗麟の時代はすごかったと思います。

とく目にする

立花道雪」は宗麟に忠誠をつくし一生を戦で戦い抜きます。

高橋紹運」は衰える大友氏を支えて、戦場で死を迎えます。

立花宗茂」若いながら、亡き父を負けないくらいの実力で、支えていきます。

甲斐宗運」彼は「阿蘇氏」の家臣ですが、大友氏につき名だたる戦に出ています。

「高橋鑑種」のちに謀反をしますが、出世の速さや、参加した戦での武功は大友氏の名だたる武将と名を連ねたようです。

臼杵鑑速」宗麟時代、最年長の家老でした。「鑑種の討伐」に大きく関係をします。

「一万田鑑実」一生を戦で費やし、名だたる戦に参加をし宗麟から絶対の信頼を得ていました。

‥たのように、まだまだ多くの有能な家臣がいます。

 

宗麟の輝かしい活躍

今まで、ややマイナスイメージが強かったですが‥

非常に才能を発揮する時もありました。

 

宗麟は、戦は苦手だったみたいですが、貿易については非常に優れていました。

 

このことが、大きく評価ができるのは「島津家久」との戦いの時です。

 

もう晩年のお話になりますが‥

大友氏が、島津氏に領地をほとんど奪われてしまいます。

残るのは、宗麟の篭る「丹生城」(現在の津久見にありました。)

この時に、宗麟は籠城をし戦います。

最終手段の時に用いたのが、貿易に手に入れた「大砲」(フランキ砲)です。

この活躍により、島津氏を一時的に抑えることができます。

 

そして、もう一つこの‥戦いの際に

「丹生城」に村人を入れるなど‥のことがありました。

この時に、自分の衣服を分けることや、一緒に握り飯を作ったなど‥

案外‥暖かいことも史実であったそうです。

 

宗麟の評価

宗麟の評価は、多分‥割れることが多いです。

文化を大切にして、「日本発の病院」「日本発の学校」一時は日本一の都市へ発展させましたが‥

非常に戦が苦手で、出兵した戦は大体‥負けてます。

後は、逸話もあり‥好き、嫌い も別れると思います。

 

そして‥江戸時代「毛利氏」「秋月氏」らにより、描かれた人物像は「わがまま」かつ「身勝手」なイメージです。

ですが、戦国時代当時に、日本に訪れた宣教師らからは、かなり高い評価をえています。

その証拠に、西洋の本に宗麟の絵が挿絵に描かれています。

そして「ヴァン・ダイク」の作品に、ザビエルと共に描かれています。

‥このようなことから、評価はそれぞれ‥難しいと言われます‥

 

あれこれ出来事

●宗麟が「丹生城」での籠城で使用されたとされる‥フランキ砲が、近年の間に「ロシア」で見つかったようです。

●江戸時代に、大友宗麟の娘をイメージして小説の文学作品が作成されました。

●宗麟の墓は、ふるさと「津久見」と京都の「瑞宝院」にあります。

 

最後に‥大友宗麟の登場するメディアのついて

漫画‥

  (プリンセス)しらぬいものがたり

  (フラッパー)殿といっしょ

  (wings)戦国四コマかいこ

  (カプコン)学園戦国BASARA

  (カプコン)マメBASARA

        (?)BL戦国史

  (?)美少女武将が出てる感じの‥

 

小説‥

  (人物文庫)王国燃えゆ

  (講談社)火炎城

  (光山製作所)筑前の虎「高橋鑑種」

  (PHP文庫)大友宗麟 道を追い続けた男

  (新潮文庫)王の挽歌

  (中公文庫)フロイス日本史

  (文芸社)幻のジパング

  (文春文庫)無鹿

  (叢文社)花の反逆大友宗麟の妻‥

 

 ラノベ

  (ファンタジア文庫)織田信奈の野望 全国編

 

 ゲーム

  (Koei)太閤立志伝

  (Koei)織田信長の野望

  (カプコン)戦国BASARA3~宴~4

     (白組)戦国乙女

  (System)戦極

 

 アプリ

  (silicon)戦国雅

       (Boom)戦国バスター

      (スクウェア)戦国ixa

 

 ムック

  (?)戦国時代の100人

 

 ‥など

 

 観覧ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サイトを改装しました。

お久しぶりです。

数日をかけて、ホームページを改装しました。

見た目は、色でごちゃごちゃ‥していますが、昔のデザインよりは見やすいものになったと思います。

 

 ↓

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‥URL→ http://kumasuke.noob.jp

 

動く‥アニメーションが自動再生されます。

普通‥アニメーションが再生されません。

 

(サイト内容)

‥「大友氏」「龍造寺氏」「島津氏」「大蔵氏族」‥等をメインに取り扱っています。時代設定は、「九州三国志」の時代です。たまに次世代の「細川氏」や「黒田氏」「立花氏」‥なども含みたいと思っています。

 

観覧ありがとうございました。

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●当ブログは、九州中心の「創作戦国」を描いています。

メインは「大友家」「龍造寺家」「大蔵氏」「島津家」‥

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