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-お久しぶりです。久しくの更新になります。-
-九州三国志について-
「九州三国志」とは、戦国時代に九州を舞台にした「さんすくみ」の時代になります。
メインに「大友家」「龍造寺家」「島津家」が大きな勢力になります。
-3勢力について-
「(豊後)大友家」「(薩摩)島津家」「(肥前)龍造寺家」になります。
当時のドンは
「大友家」→「大友宗麟(おおとも そうりん)」
「島津家」→「島津義久(しまづ よしひさ)」
「龍造寺家」→「龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)」
地域については、「豊後(大分県)」「薩摩(鹿児島県)」「肥前(佐賀県)」になります。
-「九州三国志」の重要人物-
○大友宗麟/大友義統 ○龍造寺隆信/鍋島直茂 ○島津義久/島津貴久
○有馬晴信/大村純忠 ○伊東義祐/肝付兼続 ○秋月種実/高橋鑑種/筑紫広門or惟門
○毛利元就/毛利隆元 ○織田信長/豊臣秀吉 ○大内義長/大内義隆
‥
-3勢力の周辺地域について-
多分、ざっくりこんな感じです。
目立って関係深いお家
○「(豊後)大友家」と「(筑前)秋月家」
○「(薩摩)島津家」と「(大隈)肝付家」
などなど‥
-九州三国志の戦い-
<大友宗麟の黄金期>
家督継承後「宗麟」は、いろいろと問題を直面しながらも大きく九州を支配します。
最大の黄金期には「(日向)宮崎県」「(薩摩/大隈)鹿児島県」を除き支配下におきます。
<大友家の敗北>
調子のよかった大友家ですが「耳川の戦い」で歴史的敗北を喫します。
-耳川の戦いとは-
‥島津家の支配から逃れるために「(日向国主)伊東義祐」が「大友宗麟」を頼ったことがはじまりです。
敗北をした「大友家」はこれを大きいきっかけに「(肥前)龍造寺家」「(筑前)秋月家」「(薩摩)島津家」に領地を奪われていきます。
<龍造寺隆信の参上!>
今まで大友家の配下だった「龍造寺家」ですが。「耳川の戦い」の敗北をきっかけにムシャムシャと侵食していきます。
有名な勝利の話だと「今山の戦い」になります
-今山戦いとは-
‥龍造寺隆信の義弟(家臣)の「鍋島直茂」をメインにして、大友家の「大友親卓」の合戦になります。
この戦いの勝利をした「龍造寺家」は、反大友家「秋月家/筑紫家‥」らと共にこの時からフィバーの時代を迎えます。
<龍造寺の衰退>
フィーバー時代を迎えた「龍造寺家」でしたが、衰退を迎えます。
そのきっかけが「柳川城をめぐる争い」
-柳川城とは-
‥難攻不落の城として「立花宗茂」で有名なお城です。当時は「蒲地氏」がいました。
「龍造寺家」がムシャムシャ‥と大友家の領地を召している時同じく「島津家」も領地ムシャムシャしていました。
そこで「龍造寺隆信」は「柳川城」を「島津家」に奪われることを阻止するべく、直接的な支配を進めていきます。
この際にいろいろとありまして、これを機に「龍造寺家」から離れる人が多くなります。
<有馬家の爆発>
そして、以前から「龍造寺家」と敵対していた「(肥前)有馬家」。
「龍造寺家」の支配に爆発をしました。
その時に、当時有馬家のドン「有馬晴信」は「島津義久」を頼ります。
<島津家と龍造寺家>
「有馬家」の頼みを受け入れた「島津家」は同じくして「龍造寺家」と戦います。
この戦いを「沖田畷の戦い」といいます。
-沖田畷の戦いとは-
‥「(肥前)龍造寺家」vs「(薩摩)島津家/(肥前)有馬家」の戦いです。
この戦いにより、戦国時代史上珍しいのですが。
頭領の「龍造寺隆信」が戦場に打ち取られます。
これにより、「島津家」のフィーバーの時代が波が‥きます。
<宗麟大阪へ行く>
「龍造寺家」が倒されてしまい。島津家を食い止める壁がなくなってしまい。
「大友家」は本格的にピンチになります。
そこで、「大友宗麟」は家臣の遺言を聞き入れて大阪へいきます。
大阪では「豊臣秀吉」に会い、救援の約束をします。
<大友vs島津>
大阪から帰り、「豊臣家」からの救援を待つ「大友家」。
「耳川の戦い」の敗北を機に「秋月家/龍造寺家/島津家」から、領地を食べられてしまった「大友家」は、ついに島津家と再び戦うことになりました。
この戦いを「丹生島城の戦い」といいます。
-丹生島城の戦いとは-
‥「大友宗麟」vs「島津家久」の戦いになります。この戦いでは日本で初めて「フランキ砲」が使用されます。
この戦いでは、「フランキ砲」の力もあり島津家を撤退させます。
<豊臣秀吉の九州征伐>
大阪へ行き、「豊臣家」に助けをもとめた「大友家」。
ついに、豊臣家が「九州征伐」にのりだします。
豊臣家配下の家が「島津家」を征伐しにきます。
当初は「戸次川の戦い」と島津家は勝利をします。
-戸次の戦いとは-
‥「島津家」vs「豊臣家/配下武将」の戦いです。この戦いは総大将の「仙石家」等が参加をします。結果的に「島津家」の勝利。これに「豊臣家側」に参加をした「長宗我部信親」が亡くなるなど、かなり血みどろな戦いになります。
<島津義久の降参と、九州三国志の終わり>
当初は、島津家もよかったのですが、天下の「豊臣家」を敵にまわしたことと、島津家も家中で揉めることになります。
結果、「島津家」は降参をします。
これにより、今まで三勢力として争ってきた「大友家」「島津家」「龍造寺家」の時代は終わり、新たな「豊臣家」の配下になりました。
‥ここまでが、ざっくりとした「九州三国志」の流れになります。
かなり、はしょりましたがかなりそれ以上にもめてます。
-九州三国志後の九州-
<新たにきた人たち>
「九州三国志」後の九州は上のとおり「豊臣家」の支配下に入ります。
そてにより「秀吉」の配下の
○「加藤清正」
○「細川忠興」
‥
等が、九州に派遣されます。
<後の「三国志」の三勢力>
(島津家)九州征伐後は島津家は「島津義弘」をメインに「朝鮮出兵」や「関ヶ原の戦い」等の名だたる戦で功績をあげて行くなど、知名度が高くなります。
(龍造寺家)頭領「龍造寺隆信」を失い。龍造寺家の実権などを義弟「鍋島直茂」を握り、彼も同じく名高い戦に参加し、「秀吉」等から信頼を得ます。
(大友家)「秀吉」に救援をもとめた後、かなり「宗麟」は「秀吉」から気に入られたようで「日向(宮崎県)の支配」をと話しがありましたが、「宗麟」は断り。
残念なことに「九州征伐」が終わる前に亡くなります。
そして、さらに残念なことに「秀吉」に息子の「義統」は嫌われてしまい。(朝鮮出兵の失態等)かわいそうなことに‥。
-九州三国志後の余談-
この記事ではあまり、ピックアップしませんでしたが。
「秋月家」やについて。
当時のドン「秋月種実(あきづき たねざね)」は「反大友家」の中心人物になります。
彼の「弟か息子」※史実により表記違いあり
が後、「延岡城」を支配することになります。
-ここまで読んでくださりありがとうございます。-
どこの国の戦いや勢力図にもあると思いますが。
そんな中でも「九州三国志」は非常に個性の強さを私は感じます。
「島津家」「龍造寺家」「大友家」と、国も違えばドンの性格も違い。あたり前のとうに家臣だって違います。
簡単な話。三名三家‥。かなりクセが強く。
こう本を読み学んでいて、他の地域とは違う魅力があると思います。
本当に、ここまで読んでいただけて嬉しいかぎりです。
それでは、またお会いしましょう。
では‥